朴葉寿司プロジェクトメンバー 森岡由紀子
「朴葉寿司の来た道を」
電車からでも車からでも、この季節の朴葉はすぐにわかる。葉裏を翻し揺れる若葉は、降り注ぐ光と風のありかを歌ったり踊ったりしながら教えてくれている。朴葉寿司プロジェクトに入ってからはとくに、朴葉が目に飛び込んでくる。葉っぱをそよがし「私たちはここに〜」と歌っている朴葉を見れば嬉しくなって、一緒に歌う代わりに朴葉寿司を作りたくなる。
🟢朴葉の化身はfore levesから朴婆sへ
新緑の朴葉への愛と朴葉寿司への愛は分かちがたい。2020年に朴葉寿司愛ほとばしる寿司幸女将の杉本さんの呼びかけで、恵那市内の事業者さんと市農政課とで「恵那朴葉寿司プロジェクト」が発足した。恵那の郷土食朴葉寿司の認知度を高め伝承を促す趣旨で。事業者ではない私は、中山道大井宿「姫宿の会」という活動に野次馬根性で参加し、杉本さんたちとお仲間だった。その流れと民俗学的な関心もあってメンバーになってしまった。
2021年4月、プロジェクトで㏚動画を制作することになった。スマホで動画を見る人にも目立つよう、お揃いの派手な緑色Tシャツを着て、塩ビ素材の緑色のカツラも被ったら緑星人の仮装のようになったが、気分は朴葉の化身だ。緑カツラが控え目に4つだったこともあり、メンバーのうち4人が朴葉の化身の「fore leves」と名乗ってみた。朴葉と「4枚の葉」をかけ、昭和のアイドルグループ「フォーリーブス」も懐かしむ目論見は、若者はそのグループを知らないとのことで却下の憂き目に。そうこうするうち自然発生的に「朴婆」となって、朴葉の妖精あるいは妖怪の「朴婆で~す」と名乗りながら活動を楽しむことになった。
🟢柳田先生、もう一言ください!
朴葉寿司がこの地域で作られるようになったのはいつ頃からか資料は乏しい。明治42(1909)年5月末、民俗学者・柳田國男は木曽から五箇山への旅の途中、加子母を過ぎてすぐの現・下呂市竹原地区御厩野(みまやの)の「ある家で憩しに、朴の葉に包みたる寿しをくれたり」と紀行文『秋風帖』に記している。その短い文が「いつ頃からか」を推察する貴重な指標となっている。
願わくば柳田先生!「この朴の寿しは、〆た鱒を混ぜ込んだ酢飯を朴の葉先側に乗せ、その反対側の葉を折り被せたものなり。それらを櫃に一夜押し重ね朴の香を飯に移したものを、田の神・山の神に供えし後に、村人ら田仕事繁忙期のねぎらいや馳走にするといふ…」とか、このぐらい書き残してくれていれば、朴葉寿司の来歴や分布などもう少し検証が容易くなったかもしれない。
恵那の朴葉寿司伝播の道筋も現段階では仮説の域を出ない。百年を遡らなくても山々と谷と川とで細分化されていた村や町の、たとえば藩の違いや、主たる生業の違いなどから派生する人々の暮らし向きを、合併を重ね広がった市単位で推し量るのは難しい。まして各家の食文化はその家族の記憶にのみ留め置かれてきた。だからこそ、朴葉寿司の来た道を探ることをやめられない。
「風土」という言葉が好きなのは「Foods」を音で連想させるからだろうか。食い意地が張っていることは悪いことじゃない。風土が朴葉寿司を作り広げて来た。その季節になると、家庭で地域でさまざまな朴葉寿司が人の手によって作られ来て、そしてこれからも地域の自然の恵みを活かした朴葉寿司が作られていく。朴婆sはforeverでありたいのだ。
朴葉寿司ガイドブック https://tabetoru.com/hoba-book/
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